最初にこのアルバムを聴き終えた直後に覚えた恍惚とした虚脱感は、二度と忘れることはないだろう。いや、忘れることを許してはいけないとさえ思う。前作『Human』以来、池貝峻、篠田ミル、大井一彌、山田健人から成るyahyelが実に5年ぶりに完成させた3rdアルバム『Loves & Cluts』は、そのタイトル指し示している通り、“愛と狂信”という命題と真っ向から対峙している。危うくて尊い、醜くも気高い、生々しく狂おしい概念を、その比肩なき像を結ぶソングライティングとサウンドプロダクションをもって徹底的に見つめている。リアルディストピアのごとき現代を生きる我々が頼りない姿勢で立っている此岸と彼岸にも似たボーダーラインを描いている。この裂け目から鳴り響く重厚な声と音は、果たして、透徹とした愛なのか、それとも不可侵な狂信なのか。あるいはそれは一瞬で反転するということを、彼らは本作に収められている全11曲をもって極めて物語性の高いバンドドキュメンタリーとして体現している。事程左様にこの5年間、バンドは軋轢の渦の中にいた。しかし、それでも、それぞれが独立した音楽家/プレイヤー/クリエイターであるメンバー同士が摩擦し続けることを受け入れながら、ギリギリの状態で本作を完成させた。

様々な大陸に存在する神や仏に捧げられる祈りの声と信仰の音がプリミティブかつカオティックに折り重なったイメージを浮かべる1曲目「Cult」から、息を呑み続けるとてつもない緊張感が通奏低音のように流れている。正直、気圧される楽曲の連なりに激しく揺さぶられ、疲弊もする。これまで映像作家として先鋭的なクリエイティビティをバンドに寄与していた山田健人が本作でギタリストとしてクレジットされていることにも顕著だが、サウンドの様相はあきらかに肉体性を増幅させている。もはや“ポストダブステップ”などの記号に隔世の感を覚えるほど、音楽的な実装は世界のどのバンドとも類似性を見いだせない独創性を得ている。ただ、あえて特筆するならば本作はyahyelに初めてロックバンドとしての性格が見えるアルバムだと言えるだろう。

そして、誰かの瞳には狂信的に映るのかもしれないバンド愛が形象化されたまさにロックバンド然とした9曲目「Four」にたどり着く。そこから全編日本語詞で綴られた池貝の私小説でありまるでプリズマイザーのエフェクトがかかっていないデジタルクワイアのような趣のあるラスト「kyokou」まで持続するカタルシスは、間違いなくそれまでの楽曲に帯びている尋常ならぬ緊張感があったからこそもたらせられるものであり、本当に筆舌に尽くしがたい。

2023年の春にyahyelがこの『Loves & Cluts』というすさまじい音楽作品を世に送り出すことの特別な意義を記録するためにメンバー全員に語ってもらった。アルバムの概論としてご一読いただければ幸いだ。

 

──正直、1曲目「Cult」からその音にも、リリックの内容的にもかなり気圧されて、至極ヘヴィーな作品の中に入ってしまったという感覚が続きました。だからこそ、9曲目「Four」以降から形容し難いほどのカタルシスを覚える。逃げ場のないしんどさと引き換えに、ものすごいアルバムを聴いたという実感を覚える作品だし、今この時代にyahyelとしてニューアルバムを作り上げるのであればここまですさまじい内容にしなければならない、せざるを得ないという覚悟があったのではないかと。極めてタフな制作時間だったと想像しますが、まずはそれぞれ本作が完成したことの率直な気持ちから聞かせてもらえたら。

 

池貝 僕がソングライターとしてこのアルバムの曲を作り出そうとしてからかれこれ3、4年経っているので。率直な実感としては、「やっと終わった」という思いがありますね。胸のつかえが取れたというか。アルバムを作るプロセスの苦しさという部分はこれまでとほとんど変わらないんですね。ひとつ決定的に違うのは、最初から自分の中で「こういう曲になる」と明確に見えているものを、バンドメンバーにどう委ねて、崩すのかという過程の中でみんなとすれ違い、ぶつかったということが大きくて。正直、それがめちゃくちゃ苦しかったです。

 

──メンバーとの軋轢があったということですか?

 

池貝 はい。当然、ずっと過ごしてきた仲間とぶつかりたくなんてないじゃないですか。でも、メンバーみんな30代になって、それぞれ社会の接点や日々の過ごし方が変化している。その中で、それぞれのフィードバックを全て還元して音楽と向き合うかは、ニアリーイコールで社会とどう向き合うかということでもあると思うんですね。僕は個人で完結するソングライティングにずっと憧れながら生きてきて、バンドに憧れていたわけではなかったので。とにかく曲を書きたかった人間なんですね。でも、3作目にしてそのプロセス(バンドで音楽を共有し、作り上げること)をやっと経験することができたと思うし、コロナ以降、社会がものすごいスピードで変化していて、その変化も含めて全部引き受けたという意味ではすごく濃度の高いアルバムができたと思います。3作目にして確信したのは、やっぱり僕は生きてる時間のこととそのフィードバックでしか曲を書けないということで。だからこそ、まだまだやれることはあるという感覚がありますね。ある種、このアルバムが次への受け皿になるんだろうなって。

 

──メンバーとの軋轢というのは、アルバムのテーマ性を共有することの難しさみたいなことから端を発したんでしょうか?

 

池貝 う〜ん、それがバンドの面白いところでもあると思うんですけど、今思い返せばたぶんもっと重層的な話なんですよ。バンドって音楽を作る共同体であって、共にそれをすることが第一の目的なわけじゃないですか。メンバーそれぞれがこの時代に生きている中で、こういうフィードバックがあって、それに対してアートとしてこういう表現がしたい、音楽的なモードとしてこういう音を作りたい、とイメージを持っている。僕はソングライターとしてバンドに自分の歌を託す際に、なぜその音なのか、なぜそういうムードなのか、もっと言えばメンバーそれぞれの人間性と、それぞれの人生で何が起きているかということと深く対峙せざるを得ない。それが結局、この5年間のすべての軋轢を生んだんだと思います。でも、よく考えてみたら特にコロナ以降のこの2年強は、社会の中で誰もが無理をしていて。僕らにしても、その無理の仕方がメンバーそれぞれ全然違ったんですよね。それぞれが共有できないレベルの無理の仕方をしていたんだなと今になってやっとわかる。それが積もりに積もってみんな混乱していたんだなって。

 

──それは2023年だからこそ、はっきり言える。

 

池貝 そうですね。でも、ある意味ではこのアルバムの結論的な話にもなりますけど、自分たちは音楽を作ろうという動機としての入口があったからこそメンバー同士で会話せざるを得なかったし、強制的に制作とも向き合うことになった。もしかするとそれはとてもラッキーなことで、瓦解せずにアルバムを作れたのはすごくポジティブなことでもあるなと思います。あくまで結果論ではあるんですけど。

 

──ここにこのアルバムがあるということは、バンドにとって揺るぎない希望の証左でもあると思います。ミルくんはどうでしょう?

 

篠田 「胸のつかえが取れた」とガイも言ってましたけど、その感覚は僕もすごく理解できるというか。今、ガイがソングライティングにおけるプロセスの話をしていたと思いますけど、そのことがバンド内部での軋轢として重要な部分だったなと個人的に感じていて。たとえばソングライターとしてのガイを尊重したいけど、一方で、ソングライターが明確に見えているイメージに乗っかって、それを曲として具現化していくという作業に対して、自分の存在意義を見出し続けることの難しさをメンバーそれぞれが違う形で感じていたと思うんです。バンドという共同体を続けていくうえで意味づけができない問題が僕の中にはあって。それが、さっきガイが言っていた軋轢だと思うんですね。そうなったときに実際にどういう過程を踏んで音楽を作っていくのか。その問いに我々は直面せざるを得なかったし、行き先の見えない中で、4人でこのバンドをどう営んでいくかということをそれぞれが模索していたし、ずっと模索しながらこのアルバムを作るまでに5年かかったという感じで。根本的な問題は解決してないかもしれないけど、何はともあれこのアルバムを作ることができたし、みんなで取り組めたという事実に肩の荷が下りたという感覚ですね。ゴールが見えない状況の中で、各々がアイデアを持ち寄って、1枚のアルバムを作り上げていく。その過程で衝突しながら、それでもバンドの制作を営んでいくことができたし、だからこそ自由になれたとも思います。これから何をやってやろうかというワクワク感も覚えている。さっき希望というワードが出たし、ヘヴィーなアルバムという印象を持たれたという話もありましたけど──僕自身も本当にこのアルバムは重たいと思っていて。それは我々の5年間の過程が凝縮されているから重たいのであって、それと同時に今のyahyelができることを出し切ったからこそ、次に開ける扉に対してのワクワク感を持っているという感じですね。

 

──だから、このアルバムは分断がそこかしこで起こっている現代に提示するyahyelのリアルなバンド論でもある。

 

篠田 そうですね。『Loves & Cults』というアルバムが象徴的ですけど、結局、共同体をどう営んでいくかという話だと思うんです。バンドというミニマムな共同体はさっき話したような軋轢も生むし、ソングライターが明確に見えているものに対してすれ違いもする。それでも共同体の中でどうやって作品を作り上げられるか。分断というワードが出ましたけど、僕はべつに分断が起こるのは悪いことではないと思っていて。そもそもみんな違う人間だし、一緒になったほうが気持ち悪いし、それこそカルトっぽいなと。むしろ大事なのは、分断されたままどうやって共同体を営んでいけるかということなんじゃないかなと思うんです。

 

──愛とカルトの問答と真っ向から対峙しながら、軋轢も生じながら、個々人の創造性をぶつけ合いながら、共同体としてのバンドを生かすドキュメントでもある。が、だからこそ、とてつもなく重い。

 

篠田 それに対する解を、音楽制作を通して表現できたんじゃないかと今は思ってます。

 

──ダッチ(山田)はどうでしょう?

 

山田 すごく的を得てる話が2人から出ましたけど、アルバムの感触で言うと、緊張感がかなりありますよね。特に前半から中盤。ミルの言葉を借りるなら分断された個々人が集まって作ったという感覚があるし、客観的に見るとしたらいかにもバンド然としたアルバムとはまた異なるものになっていると思うんですね。かなり物語的でもあると思うし、それこそ「Four」以降も含めて、ひとつの作品を通しで聴くことに価値があると思う。通しで聴くからこその緊張感があるし、聴く人も7曲目の「Slow」や8曲目の「Eve」くらいまでは僕たちのこの5年間と同じように「このアルバムはどこに向かっていくんだろう?」ってシンクロできる気がするんです。

 

──追体験というかね。

 

山田 そう。そこから「Four」以降、音像的に開けていくことも含めて物語的だし、もっと言えば映画的なドキドキ感のあるアルバムだと思います。だから、僕としては、今はシンプルにすげぇいいアルバムができたなという実感しかない。あと個人的にはギターという楽器との出合いがこの5年の中であったし、超平たい話をすれば人生で初めてレコーディングという概念と向き合ったので。音楽と自分というあり方における新しい分野を開発できた部分もいっぱいあって。それは楽しかったですね。

 

──ダッチのギターワークがあきらかにサウンドプロダクションにおいても大きな変化をもたらしていますよね。

 

池貝 そこは助かりましたよ、やっぱり。

 

山田 それに関しては普通に面白いという感覚で。俺の人生初のレコーディングアルバムなので(笑)。今話していて思うけど、それこそ2枚目のアルバム『Human』のときは、yahyelのサウンドとしてギターのギの字も概念としてなかったわけで。でも、今回のアルバムを紐解いたときに、ギターに限らず今までチョイスしてなかったいろんな音が入っていて。ミックスもアナログにこだわったり、そういうことも含めて実験的というワードにも置き換えられるかもしれない。僕だけではなくメンバー全員が自分の音楽キャリアの中で初体験のトライをしたから。それも面白いなって。

 

──ダッチがギターを手にして弾くようになった契機はなんだったんですか?

 

山田 特にないよね?

 

篠田 突然言い出したね(笑)。

 

山田 ただ、バンドとしてライブをどうやってやろうか、という時期はあって。僕はずっとVJとしてyahyelのライブに参加していましたと。で、マニピュレーター(2019年に脱退した杉本亘)が不在になったときにライブをどうするかとなったんだけど、俺がやってみたら意外とできたんですよね。当時、自分としてもライブで映像を出す以外の領域を広げたいという気持ちもあったし、最初はなんとなくギターでも持ってみようかなと思っただけです。曲作りにアプローチするつもりもなかったし。まぁ、どんどんギターが好きになっていったんですけど(笑)。

 

──ギタリストに対する憧れとか、そういうのもなく。

 

山田 僕は全くそういうタイプではないですね(笑)。ただ、親和性はあったのかなと思います。そもそも自分がギターを使って出したい音像感みたいなものがたまたま今のyahyelのムードに合致したと言いますか。

 

──もともとインダストリアルロックとかも好きだしね。

 

山田 そう。このアルバムの制作過程においても、たとえばガイが「こういうギターにトライしてみてほしい」という話が何度かあって。僕も「やってみるわ」って言って、そのまま録ったりして。

 

池貝 得意そうな音がわかりやすいしね。

 

山田 そうそう。

 

池貝 ウチのバンドはたぶんミュージシャンに憧れて音楽をやってる人はいないんですよ。一彌以外は(笑)。

 

大井 まぁまぁそれはね(笑)。

 

池貝 逆に映像発信で生まれた曲もあるんですよ。僕らがバンドとしてまったくコミュニケーションが取れてなかったときにダッチから「映像を作るから、音を作ってよ」って話を振ってもらって。「Mine」や「Sheep」は映像がきっかけになってできたんです。

 

山田 あの2曲は完全にそう。

 

──アルバムにおいても5曲目「Mine」から6曲目「Sheep」にいく流れはシームレスですよね。ダッチの中で映像を基軸に曲を作る提案をしたのは、バンドの生命維持のためという思いもあったんですか?

 

山田 そこまでおこがましい考えはなくて(笑)。単純に会話がしやすくなるというのもあったし、自分の映像作品に合う曲になればいいなと思っただけというか。

 

池貝 本人はこう言ってますけど、俺らからしたらめっちゃありがたかった。「会話で解決できないわ」って悩んでいたし、フロントマンとして「ヤバい、どうしよう」となっていた時期だったから。

 

山田 たしかに結果的には制作が進んでいくきっかけになったのかな。「Mine」からの「Sheep」はこのアルバムの中でもいい流れを作っているなと思っていて。「Four」以降、「Love」、「kyokou」にいくまでのブリッジとしてかなり重要で。「Mine」から「Sheep」でどんどん深く潜っていけるから。

 

──いや、まさにカオティックな序盤と深淵な中盤以降の流れがあってこそもたらせられる「Four」以降のカタルシスだと思う。

 

篠田 「Mine」、「Sheep」ときて、「Slow」、「Eve」でまだ潜っていくんかい、というね(笑)。

 

──そして、一彌くんはどうでしょうか? yahyelのドラマーとして『Loves & Cults』というアルバムを完成させた思いは。

 

大井 もうね、3人がほぼほぼ大切な話をしてくれたと思うんですけど。本当に1作目みたいな気持ちで取り組んだ制作物が完成したんじゃないかと思ってます。バンドアルバムを作れたんですよね。一般的なバンドとは違いますけど、ダッチがギターを弾き始めたり、ミルがベースを弾いたり、僕のドラムにしてもそうで、みんながより演奏者として楽曲に関わることが増えたので。そういう意味では我々にしか出せない音が必然的に鳴っていると思います。これまでの2作品も聴き直したんですけど、今までは制作していくうえであらかじめ正解のある議論をすることが多かったと僕は感じていて。たとえばどういう音をチョイスしていくか判断するときにAパターン、Bパターン、Cパターンがあって。そのどれを採用するかとなったときに完全に理由が説明できるものから採用されていくことが多かった気がするんですね。

 

──ああ、そういう“ロジカルなすごみ”みたいなものが過去2作は顕著にあったと思います。エラーを許さないというか。でも、このアルバムはエラーをも受容して、昇華している。

 

大井 うん、そうですね。今作は今までになかった「こいつが出したい音がここにある、ただそれだけでいい」という制作だったというか。そういう意味では正解を求めてああだこうだ言いながら、理由が説明できる正解を選んでいくやり方じゃなかったからこそ、すごく歪な作品ができたと思ってます。ライブからのフィードバックがあったのもけっこう大きくて。曲順がセットリストっぽいんですよね。

 

──すごくわかります。

 

大井 それこそ物語性があって。ライブで映像を出していた人が音に関わりたいと思うようになって、今やギターを弾いてるという現象も起こった。今後もメンバーそれぞれが普段どういう生活をし、どういう活動をしていくかがバンドの制作にフィードバックされていくんだなと思うとすごく希望に満ちた一歩目を踏み出せたんじゃないかなって。前作から5年も経っちゃったのかとも思うし、この5年間は、社会はおろかバンドとも自分のパートナーとも分かり合えない時間も経験して。そういうことも経て、結果的に正解かもわからないような相手が出している音に納得して、次に進んでいくというこのアルバムを作る行程は愛がないと踏めないと僕は思ったんです。そこでメンバーを愛するようになったときに「ああ、すげぇカルトじみてるな」とも思いました。そこには理由がないというか。相手がそこにいて、その相手が出している音を聴く。そこにただ反応する。それが正解か不正解かは問題じゃなくて、そういうものの積み重ねがすごく狂信的だなと思うし、バンド的だなとも思うし、新たな1作目のようだなと思うんです。

 

──これまで以上に多様なビートの様相がありつつ、ロック的な肉体性が増幅したことについてはドラマーとしてどういう思いがありますか。

 

大井 毎回デモを0から1にする曲の種をガイが持ってきて、それをみんなで聴いてそれぞれが反応していくわけですけど。今回はこんなロック的だったり、こんなにポップでもいいんだということをよく感じていました。それに対しては、自分がたくさん考えて作り込んで「これどうよ!?」って自信満々に聴かせたものが全然ハマらなかったりして。むしろ「まぁ、こんなもんか」という感じで、一瞬で作ったものがきれいにハマったりもしたんです。そういうミラクルというか、期待を裏切られ続けることの連続でした。やっぱりバンドという共同体の中で自分の手から離れた音は、自分のものでなくなっていくし、リリースしたらそれは聴き手のものになるんだと思うんですよね。それが音楽だなと思う。だからこのアルバムがリスナーにどう受け止められるのかすごく楽しみですし、早くいろんな人に聴いてもらって、いろんな反応を生んでもらえたらと思ってます。

 

──冒頭、ガイくんから「このアルバムに入ってる曲はかれこれ作り出そうとしてから3、4年経っている」という発言がありましたが、“愛と狂信”というテーマはパンデミック以前から頭の中にあったということですか?

 

池貝 それは常々考えてることではあるんです。その強度がパンデミック以降に高まったというだけで。でも、他のことを書いてみようと思った時期もあったんです。メンバーがあまりにも納得しないから、ヤケクソな試行錯誤もしました。それこそ、そもそも自分の歌をバンドに委ねる恐怖を克服するということを一番経験したのが俺だと思うんですね。ソングライターとして、「今はこれしか書けない」というものを出すことがすべてだと思っていたので。「そうじゃないプロセスがあるんじゃないの?」という意見が少しずつバンド内で出てきて、他のテーマも考えたんですけど、でも──やっぱり結果的にやっぱりこのテーマでしか俺は書けないんですよ。人間の軋轢を描く歌しか書けないし、そこにしか面白みを見いだせないタイプなんですよね。

 

──たしかにそれは1作目から通底している核心でもあって。

 

池貝 そうですね。それ自体はまったく悪いことではないけど、それをどう見せるかという話で。ある種、『Human』のときに歌っていたことを『Loves & Cults』というテーマに落とし込んでいった作業でもあったと思います。だから、愛とカルトという目線はそのときからあって。それが説明できた感じでもありますね。

 

──“愛と狂信”というテーマはパンデミック以降、そしてここ日本においては昨年の安倍晋三銃撃事件から端を発した宗教二世の問題なども孕みながら、より切迫した課題としてフィーチャーされている側面もありますよね。でも、このアルバムを通して最後にたどり着くのは、“愛と狂信”は現代に生きる我々にとって普遍的なテーマであるという帰結で。

 

池貝 まさに普遍的なテーマですよね。このテーマの肝はべつにカルトが悪、ラブが善とと言ってるわけじゃないことで。要は「なんでもカルトになり得るよね」「なんでも愛になり得るよね」というのがポイントで。そういう目線をいかに持つかだと思うんです。それはパンデミック以前、2019年からあったテーマだし、それがシンプルに『Loves & Cults』というタイトルに集約されただけでもある。たとえば、日常におけるコミュニケーションと、SNSでのあり方の乖離にどう落とし前をつけていくか、とか。そうやってなんでも置き換えられるテーマだと思います。政治思想であろうが、宗教団体であろうが、なんでも狂信的になり得るし、なんでも愛として肯定することもできる。だけど、肝はちゃんと愛をもって選択しても、それが誰かにとって狂信的に見える可能性があるということをちゃんと認識することなんじゃないかな。

 

──どれだけニュートラルな視座を持てるかのか、という挑戦でもあり。

 

池貝 本当に。でも究極にニュートラルなものなんてないと思うので。できるだけそうありたいという不安定さの中で折り合いをつけるしか思う。自己啓発的な脈絡の中で、自己肯定感みたいな言葉が暴走して、その状態の全てをポジティブだと捉えろみたいなムードが流れてる現代だと思うんですけど、そういうことじゃないじゃないですか。相対的な評価ではなく、生きていくということの複雑さをどう肯定できるかというだけの話で。みんな同じように危ういということですよ。

 

──このアルバムを体現するツアーは、バンドにとっても、オーディエンスにとってもエポックメイキングなものになると想像します。今はツアーに向けてどんなヴィジョンを描いてますか。最後にそれぞれ聞かせてもらえたら。

 

山田 単純に要素としてピアノが特徴的に鳴っている曲も多いので、それをどうやってライブパフォーマンスに落とし込んでいけるかなど、ステージ作りも今までと変わってくると思います。もちろん、このアルバム以外の既発曲もやろうというイメージも持ってますが、このアルバムの文脈の中にどう入れ込めるかも肝になると思うので。昔の曲をアレンジし直そうかという話もみんなでしているし、プレイする楽器に関してもいろんなアイデアが出てます。

 

池貝 そうだね。個々として我々の実験ができるし、それによって個々が成長できる。あとは、我々みたいなバンドがライブをしっかりやることも重要だと思うので。それこそ、日本のシーンもどんどんカルトになっていると思うから。それは価値観がどんどんドメスティックになっているという意味において。そんな時代にあって我々やD.A.N.のようなオーディエンスに合わせない脈絡のある音楽が残っていってほしいと思うし、それはすごく大事な機能だと思います。音楽を通してしんどいことも含めて複雑な感情と深く向き合っていく場が必要だと俺は思うんです。小さな力ではありますけど、それをやり続けるゾンビ力みたいなものをしっかり発揮したいなと思いますね。自分が苦しんでいたときに踊ってばかりの国の下津(光史)さんとかGEZANのマヒト(マヒトゥ・ザ・ピーポー)さんがステージに立っていたことや、話してくれた内容に救われた部分があって。本質的な意味において初めて”バンド”という経験をしている俺からしたら、彼らの存在はすごく重要だった。だから、自分もそういう意識を持っていたいですね。

 

篠田 ライブの見せ方に関しては根本的に変わっていくだろうなと思いつつ、そこはやってみないとなんともわからないので、今の段階で言えることはそこまでないんですけど。個人的には2018年くらいからDJをやることが多くなって。DJカルチャーのいいところって演者と観客の境界線が引かれてないところだなと思うんですよね。むしろDJがパーティーという場に音を添えていく感じで。それはそれで美しいと思うんです。もちろんライブが持つ構造の美しさも理解しているし、その一方で演者とお客さんの関係を崩せたら面白いのかなと個人的な展望として考えてます。

 

大井 ライブをやるにあたっては個々がこれまで以上に肉体を使って音を出すことになるので死ぬほど練習しますし、(他のメンバーを)死ぬほど練習させる気でいるので。本当に研ぎ澄ませた美しい音にしないといけないから、とにかくそれに必要なのは練習だけですね。死ぬほど練習してからツアーに出ます。

 

篠田 死ぬほど練習します(笑)。

 

池貝 これは一彌だからこそ言えることだね。そもそも大きい音で聴いてほしいアルバムだから。リスニング環境は個々で違うと思うけど、ライブだからこそ味わえる巨大な音像感で聴いてほしいし、それを体現できるライブにしたいです。体験しに来てほしいですね。おそらくライブでこのアルバムに対するアンサーを出すとかではないんです。ライブはライブとしてアルバムの可視化も含めて体験しに来てもらいたいですね。

 

インタビュー&テキスト=三宅正一